今回から、ミステリの具体的な分類法を検討していくことにする。二分法ではない、さまざまなミステリの分類について、これまでの例を参照しつつ、ミステリ全体を把握できるような分類方法を模索していこう。
といいながらも、ミステリの分類に入る前に、ミステリの外側について少しだけ。
これまで、ぼくはミステリ(探偵小説とその周辺分野)を犯罪文学 Crime Fiction の中の一ジャンルとして考察してきた。現在ではミステリが培ってきたさまざまな手法を使って、犯罪に関わりない物語が書かれることも多く、それらを含めて「ミステリ」と判断されている。だから、ミステリにとって犯罪は必ずしも必要な条件ではなくなっているかにみえる。しかし、ミステリの歴史をたどる限り、犯罪文学の中で生成し発展してきたことは否定できない。例外的に犯罪を扱わない場合もあるが、犯罪と全く無縁なジャンルになることはあり得ないだろう。
ところで、もうひとつ、ミステリを入れる外枠が存在する。それは大衆文芸(大衆文学)という枠組だ。今回は大衆文芸の中のミステリ(探偵小説)について、これまでどう捉えられていたのかを確認しておこう。
大衆文芸(大衆文学)という概念は、日本では大正年間に成立する。庶民のための読物は、もちろん江戸期からあったのだが、現在言われるような大衆文芸は、そうした日本伝来の通俗読物に西洋の近代小説の理念と手法を取り入れた新しい文芸で、単に楽しい読物というだけではなく、大衆を導くというイデオロギーと結びついて発展した。盛んになったのは大正末期からで、これはちょうど「新青年」の創刊、乱歩の登場による我が国の探偵小説の勃興期と重なっている。というよりも、同じ流れとして捉えられてきた。したがって、大衆小説と言った場合は基本的には時代物(中心は伝奇小説と歴史小説)のことを指すのだが、周辺ジャンルとして探偵小説もそこに含まれた。
木村毅の『大衆文学十六講』(1933)の「大衆文学の種別」には、西洋と日本の大衆小説の分類例が四つ引かれている。(引用は中公文庫版より。なお、()内も注記も木村毅が引用したもの)
マイケル・ジョゼフ(『大衆小説は如何に書くか』(How to Write Serial Fiction)
- 探偵小説(デテクチブ・ストーリイ))(彼はミステリイを探偵小説と同じものと解釈している)及び侠賊小説(クルック・ストーリイ)
- 歴史ロマンス(Sword and Cloak ともいう)
- 恋愛小説(ラヴ・ストーリイ)(この中に問題小説(プロブレム・ストーリイ)も含まれている)
- その他に冒険譚、スポーツ小説等
- 浪漫小説(これは多く青年の恋愛などを取扱ったもの。大抵終りは聖壇前の結婚式か、婚約の抱擁で終わる種類の物語である)
- 冒険小説(勇敢な行動や危険が主なるテーマである。海洋物語、西部辺彊物語、アフリカ探険物語等)
- 秘密小説(ミステリイ)(外交的陰謀、国際的陰謀、秘密結社、怪談、罪悪、空想科学談等、謎が含まっていてそれが結末まで分からないもの)
- 探偵小説
- 少年、少女の為の物――スチヴンソン『宝島』、アミーチス『クオレ』、マロオ『家なき少女』、トウェーンの『ハックルベリイの冒険』『不思議国巡遊記』等である
- 科学小説――コナン・ドイルの作中の物、ウェルズのそれ、ハルボウの『メトロポリス』の類
- 怪奇的小説――ハッガードの諸作、コナン・ドイルの作中のこれに属する物、バローズの『類人猿ターザン』の類
- 社会小説――『アンクル・トムズ・ケビン』『レ・ミゼラブル』、リードの『世界を震撼させた十日間』等
- 教訓的小説――マロックの『ジョン・ハリハックス・ゼントルマン』、ホーソーンの『スカーレット・レタア』、賀川豊彦氏の作の類
- 歴史小説――ゼロムスキーの『祖国』、シェンキェヴィッチの『何処へ行く』
- ユーモア小説
中村武羅夫(通俗小説の種別として)
- 社会小説(『レ・ミゼラブル』『黒潮』『火の柱』など)
- 家庭小説(『不如帰』『己が罪』『乳姉妹』『生さぬ仲』など)
- ユーモア小説(『膝栗毛』『浮世風呂』)
- 探偵小説(シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン)
- その他怪奇小説、冒険小説、科学小説など
上記のうち、ヴァン・ダインのものは、例の『傑作探偵小説』の序文からの引用である。木村毅はヴァン・ダインを高くかっていたようで、『大衆文学十六講』にはこの序文が、「第七講 探偵小説の総展望」としてほぼ全訳されている。こうした例を含め、この時期、探偵小説は大衆文芸の一翼をになう重要な役割をもつとされていた。木村毅はこれらの種別に次のようなコメントを述べている。
直木三十五氏は探偵小説を、現在の大衆文学の中になら加えてもいいが、理想論から言えば排除したいと言っているのに対し、ジョゼフもヴァン・ダインも此れを最も重要視している。直木氏が探偵小説を排除したいという気持も分からなくはないが、しかし西洋ではこれは大衆小説中最も愛好されているのだし、日本でも黒岩涙香の諸作が充分に大衆文学としての役割を果たしている例があるから、私は将来の理想論としても、探偵小説は除いては考えない。
直木三十五がどういう理由で、探偵小説は大衆文学の中から「理想論から言えば排除したい」と考え、木村毅もそれを「気持も分からなくはない」と言っているのか、この文章からだけではわからない。木村毅の引用した直木の分類や考えは、「大衆文学の本質」(1933)からのものと思われるが、そこにはこう書かれている。
今日、大衆文学の本質に定義を与えるといふ事は困難である。何故なら――大衆文学発生の当初に於いては、時代物のみを指した言葉であったが、今日に於いては、その大衆なる名の下に通俗文学のことごとくを、この下に入れやうとする傾向がある。
もし、大衆文学が、現在のまゝの、大衆文学であるならば、探偵小説も、通俗恋愛小説も、戦争小説も、加へていゝであらうが、私の考えてゐる大衆文学の理想論になれば、探偵小説や、動物小説や、風俗小説やなんぞは、加へる事が出来ないし、大衆文学の本質的優秀作は、たゞ一路に限定されてしまう。(『直木三十五全集21』示人社版/漢字は新字にあらためた)
この文章を読むと、大衆文学のなかに通俗文学を入れてしまうとこに、直木は拒否反応を示しているようだ。何でもかんでも、同じ名前で括ろうとすることへの抵抗感は、探偵小説の名のもとに、「変格」作品まで入れてしまうことへの、甲賀三郎のいらだちと似ているのかもしれない。直木の考える大衆文学の本質は、『イリアス』や『オデッセアイア』などのような「美と力」を現わしたものだというから、たしかに探偵小説とは相容れない気がする。
また、「探偵小説と其作品」(1929)と題した随筆には、つぎのような文章がある。
探偵小説は、娯楽的又は理智的娯楽以外には、よき生活を求むる意志を拒否している。勿論探偵小説は、その素晴らしきテーマ、又は、トリックだけによっても、十分の存在価値を持ってゐるが、もし、多くを望めば、それ以外の地点を考へる事も必要であらうと、私は思ってゐる。(同前)
こうした文章と、木村毅の「日本でも黒岩涙香の諸作が充分に大衆文学としての役割を果たしている例がある」という言い方から判断すると、楽しみ以外の「大衆をよきに導く」という思想性があまり見られないことに、直木(や当時の大衆文学者たち)の不満はあったようだ。乱歩が「探偵小説は大衆文芸か」(1926)で述べたような、「(大衆文芸が)多少とも大衆指導の意味を含んでいるものだとすると、私はちょっと困るのである。なぜかといって探偵物は決してそうした目的のために書かれるものではないからだ。」という意見は、現代では当り前に受け入れられるが、当時としては異端だったと思われる。
では、直木が探偵小説を正しく理解していなかったのかというと、そうでもない。『新文学思想講座』(1932)に掲載された「大衆文芸作法」の中で、直木は探偵小説についてこう語っている。(引用は「青空文庫」から)
第一に、その物語が自然でなくてはならない。「探偵小説」に於て自然であるということは、その不自然さ、誇張が極めて現実性に富んでいなくてはならない。即ち自然に、もっともらしく読者に感じられねばならない、ということである。そのことは、勿論、科学的でなくてはならない、という意味も含んでいる訳である。即ち、「探偵小説」の第一特徴は、「現実性の豊富」ということである。犯罪の動機、探索の手懸りが、如何に些細な、又空想的なものであろうと、それが現実性をもって読者にせまらねばならない。
第二に、サスペンスということが、その特徴であろう。どうなるだろうか、犯人は誰だろうか、といった期待と不安を次から次へと読者にもたすように仕組まれていなくてはならない。犯人を意外な処に発見さすのもいい――ドウゼの「スミルノ博士の日記」、すべての登場人物を犯人らしく見せて五里霧中に彷徨《さまよ》わせるのもいい――ヴァン・ダインの「グリース家の惨劇」、次から次へと糸をたぐるように無限に思われるほどの人物を点出して、なお彼方に犯人をかくすのもいい――ルブランの「虎の牙」、兎に角、要は読者にサスペンスをもたしていくことが必要である。
その為には、トリックが必要となって来る。伏線に伏線が重なりもつれ合う、そして読者が五里霧中になる。一つがもつれると、他が少しほぐれ、そして又その上に伏線が重なる、といった具合に、常にある部分の期待と期待につらなる不安――サスペンスを持たせるためには、トリックが重要な役割をする。ルブランの探偵小説など御覧になるとすぐわかる。いうまでもなく、そのトリックは充分現実性を備えていなくてはならない。だから、第三の特徴として「暴露されないトリック」が挙げられるのである。
以上のようなものが「探偵小説」の特徴として数えられる。「探偵小説」は、大衆文芸の一分野としても考えられるのであるが、それ自身又独立して「探偵小説」としての分野を展開している。即ち、次の三つの種類にわけて考えていいと思う。
本格的「探偵小説」、文学的或は芸術的「探偵小説」及び大衆文芸的「探偵小説」――
本格的「探偵小説」の中に含まれるのは、古い所では、コナン・ドイルの探偵作品、新らしい所では、現在人気の頂点にあるといわれている、かのヴァン・ダイン、又はウォーレスのごとき人の作品が挙げられるであろう。
文学的なものとしては、チェスタートンの「ブラウン物語」のごときが挙げられるべきであり、大衆文芸的「探偵小説」としては、ルブランの作品が代表的なものであろうと思われるのである。(「第七章 探偵小説」)
直木の探偵小説の分類は「本格派」「文学派」「大衆派」である。この説明を読めば、直木が正しく探偵小説を理解していたことがわかるだろう。*1現実性を重んじる論旨からいっても、ヴァン・ダインの『傑作探偵小説』序文に目を通していたと思われる。探偵小説に「現実性」を要求するからといって、すぐに「自然主義的リアリムズ」を持ち出してはいけない。直木は明治期の「実話探偵小説」について、次のように批判している。
併し、それ等創作探偵小説の愚劣さ加減と来ては、言語道断なものがあった。即ち、新聞記事中の事件は、直ちに小説に書きあらためられるのであって、例を挙げるならば、近頃の説教強盗といったような、当時世間を震撼《しんかん》させたピストル強盗清水定吉とか、稲妻小僧坂本慶次郎とかは、忽ち探偵小説となった。だから、探偵小説を創作すると云うよりは、寧ろ新聞記事の小説化と云った方が妥当であろうと思う。そして加之《しかのみならず》、事実を興味深く粉飾するために、何の小説にも一様に、護謨《ゴム》靴の刑事と、お高祖頭巾《こそずきん》の賊とが現れ、色悪と当時称せられた姦淫が事件の裏に秘《ひそ》んでいるのに極まっていた。
以上のような、程度の低い、探偵小説は、やがて、当然行き詰らざるを得なかった。
「ゴム靴の刑事と、お高祖頭巾の賊とが現れ、色悪と当時称せられた姦淫が事件の裏に秘んでいるのに極まっていた」という文章など、どこぞで読んだ気になってくる。こうした「三面記事的ドラマ」批判も、「人間が描けてない」批判と同じく、昔からあったのだ。そして、それに対抗するのに「絵空事けっこう」というのではなく、「空想的なものであろうと、それが現実性をもって読者にせまらねばならない」とした。正しい理解であろう。
さて、この「大衆文芸作法」でも直木は大衆文芸を分類している。
- 時代物
- 少年物
- 科学物
- 愛欲小説
- 怪奇物(広い意味の探偵小説)
- 目的、又は宣伝小説
- ユーモア小説
前の分類とは少し違っている。探偵小説は怪奇物といっしょに含まれることになった。また、この分類とは別に、一章を費やして探偵小説について語っている(前の探偵小説の説明は、その部分の引用)。「「探偵小説」は、大衆文芸の一分野としても考えられるのであるが、それ自身又独立して「探偵小説」としての分野を展開している」とされているほどであり、当時の大衆文芸の中で、探偵小説がかなりのウェイトを占めていた状況がうかがえる。