『浪漫疾風録』生島治郎 講談社


 生島治郎早川書房編集者時代の思い出を、小説仕立てに書いたもの。

 じつはこの本は、単行本のとき新刊で買ったまま、ずっと積読状況だった。1993年からだから、13年間寝かせていたことになる。寝かせていたからといって、味がよくなるわけでもないが、もともとが思い出話だから、腐るわけでもない。なぜ、思い出したように読んだかというと、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』で検索していて、生島治郎の項に次のようなおかしな記述を見つけたからである。

初代編集長中田誠一のもとで、江戸川乱歩監修による日本語版『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集に従事。のち、中田の辞職に伴って新編集長都筑道夫を迎えた。


 ここで名前が出ているEQMM日本語版の初代編集長という「中田誠一」が疑問だった。通常、語られるEQMMの歴史では、都筑道夫が初代編集長となっている。もちろん、よく知られているように、創刊号を準備していたときの責任者で、創刊号刊行前にやめた田中潤司の存在があり、上記の説明からすると、「中田誠一」というのはおそらく田中潤司だと思われるが、それにしてもどうして「中田誠一」という名前が出てきたのかが疑問だったのだ。

 で、ふと思いついて生島治郎の小説『浪漫疾風録』をパラパラめくっていると、やはりこの小説で田中潤司に(おおむね)相当する人の名前が「中田誠一」となっていた。フィクションに書かれていることを、事典に記述しちゃあいかんだろ、と思ったのだが、しかしほとんどの人物が実名で登場するこの小説で、どうして田中潤司だけが「中田誠一」なのかが疑問だった。もしかして、これが本名? しかし、『日本ミステリー事典』を引いても、田中潤司田中潤司である。別名に黒田昌一、邦枝輝夫があることは記載されているが「中田誠一」はない。かりに「中田誠一」が本名としても、一般に通っている名前は田中潤司なのだから、事典の記述としては「田中潤司」としなくてはおかしいだろう。

 てなことを、思ったのだが、まあ、きちんと読むと、なんらかの説明があるのかと思って、とりあえずこの小説を読んでみたわけである。

 この時代のことは、いろいろな方々の思い出話を読んでいたので、おおむね知っていることが多く、それでも新しい分野が出来ていく過程でさまざまな個性的な人物が集まってくる水滸伝的な状況は、何度読んでも面白く、いろいろな視点で語られる価値はあると思う。ほぼ同時期に早川書房にいた宮田昇の『戦後「翻訳」風雲録―翻訳者が神々だった時代』(本の雑誌社)や、都筑道夫の『推理作家が出来るまで』、小林信彦の『夢の砦』などと併読すると、海外ミステリが日本に紹介され、日本ミステリが変化していく時代の雰囲気を味わうことが出来る。

 読んでみると、僕の知るかぎり田中潤司以外はすべて実名で書かれている。ではどうして田中潤司だけが仮名なのだろうかという疑問がわく。狷介で知られる田中潤司のことだから、何か確執があったのだろうか?

 ところで、生島治郎の思い出と都筑道夫の自伝的エッセイ『推理作家が出来るまで』を比べると、面白いことに気がつく。

 まず早川書房の「残業手当なし」の件。生島治郎は編集者に残業手当なしは常識はずれで、事実、雑誌の校了間際には毎晩11時過ぎまで働いている、と力説。早川書房の方針に苦情を呈している。ところが都筑はこともなげにこういう。

中とじの翻訳雑誌で、手こずるような原稿はない。(中略)残業が必要になるような雑誌でないことは、考えただけでわかる。現に三年半、わたしが編集を担当したあいだ、定時に退社できなかったことは、たった一回しかなかった。

 この二人の話を素直に読むと、都筑は作品の選定をしたらさっさと帰って内職原稿に精を出し、そのほかの雑務を引っかぶった生島治郎が四苦八苦している、ということだったのかしらん。

 もうひとつ、生島の小説では、都筑は創刊号が発売になった後に入社したことになっているが、都筑のエッセイでは、創刊号の解説原稿のいくつかをを書いたとある。この後に、江戸川乱歩がEQMM日本語版の発刊披露をする席で都筑を編集長として紹介するくだりがあるし、もし創刊号発売後に編集にたずさわったのなら、さすがに初代編集長とは言われないだろうから、これは都筑の思い出のほうが正しいと思える。まあ、生島のほうはあとがににも「必ずしも、正確な年代をなぞらず、自在にアトランダムに時代及び人物を描くという手法を取った」とあるから、細部にまで云々するのはヤボというものだろうが。

 そのほかの感想をいくつか。

 作中、主人公(越路玄一郎という名前になっている)が「人が見ますぜ」とか「眼の先真っ暗ですぜ」とか、やたら「ですぜ」を使う。最近、この「ですぜ」を使う人は少ないだろう。思わず笑ってしまう。

 また、当時の日本ミステリ界を回顧してこう述べている。

 (前略)ミステリの中でも、権威主義や事大主義は存在した。本格推理小説が一番上の位置にあり、その他のジャンルはその下にあるというふうに考えられがちであった。だから、清張の作品は、それまでの本格推理小説とはちがったものであり、むしろ、その壁を破ったところに価値があったにもかかわらず、新本格派というレッテルを貼られてしまった。
 越路は推理小説的な手法を使った小説ならば、どんなジャンルの作品であろうと本格派と肩を並べるべきだと思いつめていた。

 これが昭和35〜36年頃(1960年はじめ)の生島の眼から見た状況である。いわゆる社会派推理小説の全盛期、その真っ只中ですら、本格推理小説はけっして過去のものとは思われてなかった。むしろ、本格至上主義が根強く残っていたからこそ、それに対抗するために、「本格は古い」ともとれるような言説をあえてした、ということだろう。(実際は「本格は古い」と言ってはいない。実際、鮎川哲也を大いに買って、共に取材旅行に行っている)

 人によって歴史の見方は違うという証左であろう。