向日葵の咲かない夏

月に一度、「屋根裏の散歩会」と称して、ミステリ好きの仲間が集まって、読書会のごときものをやりながら、ミステリ無駄話に興じるている。


昨日の読書会の本は道尾秀介の『向日葵の咲かない夏』。これが、けっこう盛り上がった。まあ、ウチの集まりはみんな理屈っぽい奴ばかりだから、理屈をこねやすいタイプの小説には一言、言いたくなる人が多い。

(ところで、この日記は「ネタバラシ」を気にせずに書いているので、そーゆーことが嫌いな人は、この後は読まないように。要の部分にも触れます。)


 この物語の主人公が行なう、自分に都合がいいように「物語」を作る、という行為、つまり、手に入る手がかり(情報)を、自分の都合いいように解釈していく行為というのは、本格ミステリの「名探偵の謎解き」と本質的には同じなんだ、というのが作者がいいたいことなんだろうな。

読書会で論議の的になったことは……

  • 超自然現象はひとつもなく謎は解かれているか?(ホラーの部分は完全になくなっているか?)
  • この物語はハッピーエンドといえるのか?
  • 叙述トリックの是非
  • 「ミチオ」という名前について

などであった。

●超自然現象はひとつもなく謎は解かれているか?

 たぶん、解かれている。少なくとも「蜘蛛のS君」が話すことは、事前に主人公が知っているはずのことしかない、という点では意見は一致した。岩村先生の件は「大いなる偶然」であるが、主人公は無意識のうちに、先生の異常性に気がついていた(男の子同士で手をつながせたり)ということで、説明可能である。また、先生がS君のビデオを持っていると主人公が知ってから、S君はそのことを語る(説明しはじめる)。

 でもトコ婆さんが教えてくれる「手がかり」は、主人公の無意識とするには、ちょっと無理があるのでは、という意見もあった。(ワタシが言ったのだが)

 本書がホラーになっているとすれば、それは主人公の「心の怖さ」ということになるだろう。


●この物語はハッピーエンドといえるのか?

 これが最も意見が割れ、また盛り上がった。

 ハッピーエンド派は、プロローグで主人公の成長が見える(妹が死んでいる=再び生まれ変わらなくなった)ことで、主人公はひとつの次元を抜けて、新たな一歩を踏み出したとして、ハッピーエンドと感じるという。石持浅海の『水の迷宮』のようないやらしさががない、との意見もあった。

 ハッピーエンド否定派は、人を殺し、自分の罪を別人なすりつけ、(家族が幸せになる)別の妄想に入り込んだだけではないか、という。

 これは、それぞれのとらえ方で、どちらが正しいというような問題ではないから、決着はつかないのだが、こういう論議もまた楽しい。

 少なくとも、両親は生まれ変わりさせないだろう、というところは、意見が一致した。エピローグに出てくる両親は、生まれ変わりの姿ではなく、七日間たつ前の状態なのである。


叙述トリックの是非

 ミカの謎は、おおかたが気づいていた。二人のミカ(母のミカとミチオのミカ)にも気がついた人もいた。スミダさんは、まあおまけである。トコ婆さんは盲点だった。(ある作品の影響をいう人もいたが、道尾は○西を読んでないだろう、という意見もあった)ミカがおかしい、ということから、「ああ、死んだ子供をナニで代用してるのね」という処で安心して、あからさまな手がかりを見逃してしまう、というミステリの技術を誉める人もいた。二重のミスリードになっているというわけだ。

 しかし、主人公のミチオが「母のミカ」を「ミカ」と内面で呼ぶのはおかしい、という意見もあった。

 これは新本格以降の叙述トリックに顕著なのだが、その「叙述が誰に対してなされているのか」が明確でない場合が多いのである。叙述トリック(巧みな言い替えや、微妙な部分を言わないこと等々)で騙そうとしているのは、誰なのか、ということである。もちろん、それは「読者」なのだが、そうなると小説の登場人物にとって、「読者」って何? ということになる。この小説のように、「手記」ではなく、主人公の内面が地の文で描かれている場合、どうしてそういうわざと言わなかったり、言い替えたりして、「叙述」するのか、というのが根本的な謎として残ってしまう。それは自然な内面描写じゃないでしょう? とすると、作為を持ってそう書く「作者」の存在があることになる。その「作者」が、小説の枠の中にいなければ、「ミステリ」としては駄目ないんじゃないか、という意見である。


●「ミチオ」という名前について

 これも叙述トリックと同じ。別作品の「ミチオ」と思わせるという作者のサービスなのだろう。

 しかし、それが明かされたときに新たな疑問(不自然さ)がおこる。友達も先生も主人公を「ミチオ」と呼ぶのは不自然じゃないの? とくに先生は他の生徒は姓で呼んでいる。主人公だけ名前で呼ぶ理由がない。それに、(これは偏見になるが)友達の少ない男子の場合、名前で呼び合うことはめずらしいのではないか。すくなくとも、作者もそう思ったからこそ、それを引っ掛けにつかったのだろう。

 この類の、「真相が明かされたときに、不自然さが目だつ」ような謎の解かれ方は、ミステリとしては、マイナス評価となる。(まあ、今回はほんのオマケだから、それほど目くじらたてるほどでもないが)