山中峯太郎の翻案シャーロック・ホームズ(準備編3)

 さて、山中版ホームズの題名だが、前回ならべたものを眺めているだけでも、興趣は尽きない。


 原題に忠実なものは、「恐怖の谷」やら「まだらの紐」、「悪魔の足」とか「踊る人形」など、やはり禍々しいものが多い。また、「トンネルの怪盗」「写真と煙」「試験前の問題」「耳の小包」「猿の秘薬」などのように、原題と大きく違うものの、おおよそ作品名を類推できるものもある。

 しかし、「夜光怪獣」とは一体何か。「黒蛇紳士」とは、「金山王夫人」とは、はたまた「バカな毒婦」とは誰のことか。「怪談秘帳」といわれて、原作が一発で分かる人が、はたしてどれくらいいるだろう。「パイ君は正直だ」や「一人二体の芸当」は、原作を言われれば思い当たりはするものの、探偵小説の題名としていかがなものか。と、ツッコミどころ満載なのである。

 それにしても、山中峯太郎本人は、これほど物語構成と順番を違えて、シリーズが次々と刊行されることをどう思っていたんだろう。『獅子の爪』の巻の最終話でホームズの死亡を書き終わり、翌月の出版に間に合うように、すぐに『踊る人形』の第1話「虎狩りモーラン」でホームズの復活話に着手した。にもかかわらず、ポプラ社はその一ヶ月が待てずに『鍵と地下鉄』『深夜の謎』を刊行してしまう。なにも原典のように10年待てというわけではないのである。ちょっと待ってくれ、今書いてるんだから、と言わなかったのか。

 ところで、ホームズの長篇作品のうち、最初に『深夜の謎(緋色の研究)』『恐怖の谷』『怪盗の宝(四つの署名)』の三作を執筆し、通常、最高傑作と言われる『バスカヴィル家の犬』にはかなり後まで手をつけなかったのは、なぜだろう。推測するに、最初の三作はアメリカやインドなど大陸での事件を背景とし、秘密結社と戦う快男児が登場するような冒険小説的な部分が多分にあり、「日東の剣侠児」シリーズなどをものした山中峯太郎の得意分野だったからではないか。対して『バスカヴィル家の犬』は怪奇色はあっても、秘密結社や秘宝は出てこない。まず、手馴れたテーマからはじめ、次第にホームズを自家薬籠中のものにしていったのであろう。いや、自家薬籠中にしすぎて、巷間ミネタロック・ホームズと言われるような、ホームズとは別の性格をもった探偵となってしまったのであるが。この辺りについては、各作品の感想を述べる時に、じっくり見ていきたい。

 ここで、ホームズ・シリーズの翻訳事情について、少しだけ述べておこう。*1

 シャーロック・ホームズ全60話の最初の個人全訳者は延原謙で、現在は新潮文庫に収録されている。このほかでは阿部知二創元推理文庫など)や中田耕治集英社/新書版)、鮎川信夫講談社文庫)などが知られているが、いずれも『事件簿』を欠いている。*2これは、長らく『事件簿』のみ、著作権が存在していたためだと思われる。創元推理文庫にはのちに著作権が切れてから『事件簿』が収録されたが、阿部知二はすでに亡く、深町眞理子が後を継いだ。反対に『事件簿』を早くから(1958年)出していた早川書房(ハヤカワ・ミステリ)の大久保康雄訳は、こちらはおそらく出版の機を逸したのだろう、『冒険』と『回想』、それに四長編がずっと欠番のままだった。1980年代にこれらは出版され、大久保康雄は一般向けの翻訳では、二人目の個人全訳をおこなった訳者となった。*3現在刊行中の光文社文庫版によって、日暮雅通が三人目の個人全訳者となるだろう。

 さて、児童向きでは、すでに述べたように、山中峯太郎が個人全訳を行なっている。それ以後の重要なホームズの児童叢書は次のようなものがある。ポプラ社阿部知二訳、学習研究社の亀山龍樹訳を除くと、複数の訳者による共同作業である。

  • 【名探偵ホームズ】全22巻 偕成社 1966年1月〜1971年3月 ★全作品
  • シャーロック・ホームズ全集】全12巻 阿部知二訳 ポプラ社 1969年11月〜1970年4月 ★「事件簿」を除く全作品
  • 【名作選 名探偵ホームズ】全12巻 講談社 1972年1月〜1973年3月 ★4長篇と短篇30編を収録/「事件簿」からの収録なし
  • 【名探偵シャーロック・ホームズ】全12巻 集英社 1972年11月〜1973年9月 ★4長篇と短篇32編を収録*4/判明する限り「事件簿」からの収録なし
  • 【名探偵ホームズ】全12巻 亀山龍樹訳 学習研究社 1972年11月〜1973年12月 ★4長篇と短篇34編を収録*5/判明する限り「事件簿」からの収録なし
  • 【名探偵ホームズ全集】全15巻 小学館 1973年7月〜1974年9月 ★「事件簿」を除く全作品/遺稿ホームズ譚「ねらわれた男」所収
  • 【シャーロック=ホームズ全集】全14巻 偕成社 1983年6月〜1985年8月 ★全作品

 さて、これを眺めると、あることに気がつく。1960年代以降は、偕成社を除いて、『事件簿』を収録した叢書は出ていないのである。小学館版にいたっては、遺稿ホームズ譚*6まで収録しているのに、『事件簿』の諸作は未収録である。やはり著作権が関係しているとしか思えない。

 ところで、北原尚彦の『発掘!子どもの古本』(ちくま文庫)には以下のような記述がある。

一時期、児童文学界に「完訳至上主義」なるものが席巻した。つまり、原作から訳すに当たって短縮したり、面白く書き換えたりするのは宜しくない、と批判されるようになってしまったのだ。このあおりを受け、山中ホームズは絶版となり、ポプラ社からは阿部知二訳のバージョンが改めて刊行されるのだった。(p38)

 しかし、この意見はよく考えるとおかしい。阿部知二版「シャーロック・ホームズ全集」と偕成社全22巻の「名探偵ホームズ」は、それほど時をおかずに刊行されている。そして、偕成社版の「名探偵ホームズ」は、ぼくは最初にこれで読んだから覚えているのだが、多くの作品がワトスンの一人称ではなく三人称で書かれていたりと、かなりいいかげんな原典の改変を行なっていた。また、ポプラ社でも南洋一郎のルパンはずっと生き残っている。阿部知二版だって、各巻の収録作品の順番は、原典とかなり違う。さらに、これはぼくの印象だが、児童ものホームズの「完訳至上主義」がうるさく言われるようになったのは、日本シャーロック・ホームズ・クラブが1977年に設立された後と記憶する。だから、上記のリストでいえば、短篇集をそれぞれ原典の収録順に収めた1983年からの偕成社版「シャーロック=ホームズ全集」が、まさに「完訳至上主義」の産物だろう。

 おそらく山中峯太郎版は、著作権を無視した、どさくさまぎれの産物だったのではないか。著作権がうるさく言われるようになって、ポプラ社阿部知二版に代えたのである。こう考えると、前回疑問としたポプラ社文庫の収録作品変更は説明がつく。『火の地獄船』の「床下に秘密機械(三人ガリデブ)」が削除されて、「断崖の最期(最後の事件)」に、また『謎の手品師』の「怪談秘帳(ショスコム荘)」がなくなって「トンネルの怪盗」に。そう、『事件簿』収録作品の差し替えなのだ。(「技師の親指」までなくなったのは、ページ数の関係か)

 しかし、すでに『事件簿』の著作権も切れ、自由に翻訳できるようになった。山中ホームズを全巻、執筆順に刊行する機は熟したといっていいだろう。いや、熟しすぎて、もう地に落ちて腐ってしまったか……

*1:参考文献は「日本におけるコナン・ドイルシャーロック・ホームズ書誌」新井清司編[ちくま文庫『注釈版シャーロック・ホームズ全集10』所収]および「推理小説叢書目録/3.児童書篇」芝隆之編[『帝王』9号所収]

*2:講談社文庫の鮎川訳は『恐怖の谷』もない

*3:のちハヤカワ文庫に収録

*4:5巻・6巻の収録作が不明だが、とりあえず4篇づつとして計算

*5:8巻の収録作が不明だが、とりあえず4篇として計算

*6:のちに贋作と判明するが、この時点ではドイルの未発表ホームズ譚と思われていた