深夜の謎(その2)/怪魔の権力を見よ!!


 山中版『緋色の研究』である『深夜の謎』だが、原典ともっとも違っているのは、最初に原作の第二部を描き、ホームズとワトソンが出会うのは物語の後半になってから、という構成である。事件が起こった時系列で記述されているのだ。


 まず現在の事件が起こり、探偵が犯人がつかまえ、さてそれから動機となる過去の因縁を語る、というガボリオ式物語構成は、子供に分かりにくいと思ったのだろうか。たしかに、山中峯太郎がこれを執筆した昭和20年代末から30年代は、大衆の読書リテラシーは現在よりも格段に低かったのは事実である。子供ならなおさら、と判断したのかもしれない。しかし、これはやはり勇み足だったような気もする。最初にロンドンの事件があって、そこで名前の出てきた人たちが、さて過去にどんな因縁をもっていたのだろう、と思いつつ読んだ方が、興趣が増すのは間違いない。当時の子供にだって、それくらいは分かったのではないだろうか。ぼくの経験では、過去の話が第二部となる構成の子供向け「ルコック探偵」を、小学校の時に面白く読んだ。(読んだのは昭和30年代後半だったかな?)

 そういうわけで、『深夜の謎』の第一部「怪魔の権力を見よ!!」は、アメリカの原野からはじまる。怪魔というのは、もちろん、モルモン経の予言者ブリガム・ヤングのことである。原作ではヤングの描写はあまりないが、それでは迫力がないと思ったのだろう。山中峯太はこう描写する。

予言者ヤング! 身のたけ高く二メートルあまり、髪は長く両かたにたれさがって、ひたいは大きく眼は底光りをきらめかし、鼻が下の方へまがっている。

 なかなか恐ろしげな人物で、灰色のガウンを着てノッシノッシと歩く様は、なるほど「怪魔」といってもいい。「鼻が下の方へまがっている」のは、ユダヤ系のイメージか。こうした時代的偏見からは、大衆読物はどうしても無縁ではいられない。

 物語は、砂漠で行き倒れになりかけていたジョン・ファリアと少女リーシ(原作ではルーシー)がモルモン教徒の大移住隊に助けられ、彼らと生活を共にする。やがて美しく成長したリーシをめぐって、流れ者の好青年ゼファソン・ホープモルモン教徒の間で恋のさやあてが始まる、という、原作と同じ筋立てである。細かいエピソードも、全体に風景描写が減って、会話を多くして読みやすくしているほかは、ほとんど原作通りに語られている。細かく言えば、原作ではジョン・ファリアとリーシに血の繋がりはないようなのに、山中版では妹の娘になっていたりするが、まあ文章を省略して人間関係を分かりやすくするためには、的確は補正といっていいだろう。リーシやファリアやホープ、敵役のヤングやスタンガソンやドレッパの性格も、おおむね原作のままである。

 ただ、他の名前が原作通りなのに(「ジェファスン」=「ゼファソン」、「ドレッパー」=「ドレッパ」は同じと思っていいだろう)、ヒロインの名前だけがなぜ「ルーシー」ではなく「リーシ」なのかは、疑問である。原文は Lucy Ferrier で、リーシとは読めないよなあ。ただ、「シー」とせずに「シ」で止めたのは、長音棒引きが二回続くと間が抜けて見えるのを防ぐためだろう。「コンピュータ」などと同じ表記法だと思われる。(ちなみに延原謙は「ルーシイ・ファリア」、阿部知二は「ルウシー・フェリア」と表記している)

 さて、ポープとリーシが婚約したのち(ファリアから結婚を勧めるのが原作と少し違うが)、予言者ヤングによってリーシの結婚相手をスタンガソンかドレッパに指名され、いよいよホープとファリア父娘が町を逃げ出そうとするシーン。原作ではファリアの心情はこう語られる。

ファリアは暗い窓からそっと自分の畑を――いままでは自分のものであったが、今晩かぎり永久に見すててゆこうとする畑のほうを見やった。捨ててゆくのだが、その考えは彼としてもずっとまえから覚悟のできていることでもあり、また娘の名誉や幸福がそれで保たれるのだと思えば、悔いるところはないのだった。(延原謙訳/新潮文庫版)

 一方、山中版はこうである。

父のファリアは、鉄砲を片手に、はって行きながら、なみだがにじみ出るのを、こらえていた。この地面、庭、家、むこうの、畑、林、市の内外にある工場、みな、自分のものだ。十二年あまりかかって、開拓に力をつくし、つくりあげたものを、今ことごとく見すてて行く、自分はすでに老人になっている、この無念、悲しさ、くやしさが、胸いっぱいにこみあげて、泣かずにはいられない。これみな怪魔ヤングのためではないか!

 いさぎよいドイル版に比べて、山中版はいささか女々しい。しかし、苦労人の山中峯太郎はドイルが描くファリアの心情は奇麗事すぎると感じ、生活人としての実感を書きたくなったのだろう。もっとも、ドイルだって生活の苦労は身に染みてはいたはずだから、これは作者がこの文章を書いた時の年齢にも関係しているのかもしれない。ドイルが『緋色の研究』を執筆したのは二十代。一方、山中峯太郎はすでに七十歳になろうとしている。この差が、こうした表現の差になってあらわれたのか。

 この第一部(原作の第二部)で、原作と山中版で設定が大きく違うところは、ヤングの末路である。原作ではモルモン教団の内部分裂で、スタンガスンとドレッパーは町をはなれ、ホープは二人を追って世界中をめぐる復讐の旅にでる。ヤングがどうなったのか、不明のままだ。しかし、山中版は違う。町に自由を求める「革命」が起きるのである。

『革命だ!』
『ヤングとその一派を死刑に!』
『自由と幸福をとりかえせ』
 この大ぜいの力を、さすがの怪人ヤングも、おさえきれなかった。
 ヤングの邸が青年革命隊におそわれて、ついにヤングは暗殺された。刀をふるって胸にさした者は、ホープだった。

 このホープの行動に、エリート軍人の道を捨て、孫文のもと、中国革命に奔走した若き日の山中峯太郎自身の思いを重ねることは、無謀だろうか。

 さて、こうしてヤングに天誅をくわえたホープは、脱走したドレッパとスタンガソンを追って、英都ロンドンに向かう。そう、いよいよシャーロック・ホームズの登場である。