MWAジュヴナイル賞1968年


1968年の受賞作は、グレッチェン・スプレイグの Signpost to Terror (1967)である。この作品は、一般向けミステリ作品を網羅したアレン・J・ヒュービンのミステリ書誌 Crime Fiction にも記載されているから、今で言うと、ヤング・アダルト的なものなのかもしれない。ネットの本の紹介欄だと、山歩きをしていた少女が、無気味な男につきまとわれる話のようだ。→http://www.fantasticfiction.co.uk/s/gretchen-sprague/signpost-to-terror.htmレッチェン・スプレイグ Gretchen (Burnham) Sprague[米 1926−2003]は70歳を過ぎてから、大人向けミステリのシリーズものも書いているようだが、邦訳は一作もない。


候補作は、この年は2作。1作はバービー・オリバー・カールトン Barbee Oliver Carleton の The Witches' Bridge である。この作家については、詳しいことは分からなかった。そしてもう1作が、ポール・ベルナの The Secret of the Missing Boat。候補作はフランス語から英訳された作品で、原題は L'Epave de la Berenice。MWAジュヴナイル賞はじめての、フランス作家のノミネートである。

 ポール・ベルナ Paul Berna(1908-1994)はフランスの児童文学者で、最初は『宇宙への門』(1955)[講談社少年少女科学名作全集]などのSFを書いていたが、『首なしうま』La Cheval Sans Tete (1955)がフランスの児童文学賞を受賞して、作家としての地位を築いた。この作品の邦訳は、那須辰造訳で講談社の『少年少女世界文学全集/フランス編5』[1961]に収録され、同じ訳が講談社から1965年に単行本でも出ている。1963年にディズニーで映画化され、1965年に「首のない馬」の邦題で公開されているから、かなり著名な作品といえるだろう。これ以降、多くの作品が、ミステリー的な手法を用いて書かれているようで、あいにくMWAの候補作は未訳だが、翻訳された『尾行された少年たち』と『オルリー空港22時30分』も、ミステリーの枠組で書かれた児童文学といえる。

 『首なしうま』は花輪莞爾の翻訳が、『首なし馬』の邦題で偕成社文庫にも入っている。今回は、この訳を読んだ。ミステリで「首なし」といえば、もちろんすり替えられた死体のことである。それが馬とは? もしや、夜な夜な、霧の中から現れる幽霊馬であるのかと、最初、この題名を知ったときは、怪奇ものを想像したものである。しかし、じつは「首なし馬」とは、古くなって首のとれた木馬型自転車なのだ。この自転車に乗って、急坂を駆け下りる遊びにふける10人の貧しい子供たちが、ひょんなことから列車強盗の隠した大金にかかわる物語である。

 舞台は、住人の多くが鉄道にかかわる仕事にたずさわっている、操車場がある町ルビニー。操車場の片隅には、錆びるにまかせて放置された客車が、黒い姿を夕日に浮かべている。この雰囲気が、なんともよろしい。10人の少年少女のボス、ガビーはもうすぐ12歳という設定だ。12歳以上の者は仲間にいれない、という自ら作った規則で、仲間たちと離れる時期が近づいている。12歳が、子供時代との別れの歳だというのが、作者の考えなのだろう。

 少年たちにとっては宝物だが、実際はクズ同然の首なし馬が、怪しい人物たちに狙われ、ついには強奪されてしまう。少年たちは警察に駆け込み、たまたま暇をもてあましていたシネ刑事が捜査に乗り出すことになる。一方、少年たちも独自の方法で馬の行方を追っていく。篇中、もっとも魅力的なのが、町中の犬を自在にあやつる少女マリオンだろう。集団の中にひとり、異能の人物を配置し、それが少女である、という、現在のわれわれにも馴染み深い設定が、すでにここに見られる。*1

 なるほど、作家の出世作になっただけあって、よく出来た児童文学だ。ミステリとしては、意外な展開があるわけではないが、少年たちが自分たちの宝を取り戻すために、手掛りをたどって犯人にたどりつく過程は、充分にスリリングである。ただ、訳者の花輪莞爾のあとがきが、なんというか、時代を感じさせる。例えば、こんな口調である。

この少年少女らはなんとはつらつと創意にみちていることか。独特の強さと勇気とかしこさと、生命、実行力にみちていることか。こういう美質を、ふやけたぜいたく時代にもとめることはむりかもしれません。しかしせめて〈現代っ子〉とやらに教えてやりたいのは、人間の幸福とは、金で買えるものと、けっきょくなんの関係もない、ということであり、それがまた、この小説が最後にいおうとしていることでもあるのです。

 このあとがきが書かれたのが本が出た年だとすると、1977年なのだが、さすがにその頃でも、こうした物言いをするオジサンは古かった。今となっては、こうした「頑固親爺」は貴重な気もする。

 ただ、子供たちの真摯な勇気と実行力は、ふやけたぜいたく時代にももとめることが出来るのだと、ポール・ベルナは思ったのだろう。『尾行された少年たち』Les Peleris de Chiberta (1958)に登場するのは、おじいさんの田舎の家に行こうとする兄弟である。14歳のダニエルとまだ幼い弟のマヌー、それにマニーのペットねずみのパタポンは、ふとした手違いから、自分たちだけでパリからシベルタまで行かなくてはならなくなる。ダニエルとマヌーは、パリでは高級ホテルに泊まっているし、おじいさんは成功した工場主、父親や伯父さんもたちも海外で事業をしているから、衣食に困ったことはない子供たちだ。しかし、伯父さんの自動車事故と鉄道ストが重なって、互いに連絡がとれなくなり、おまけに所持金をだまし取られたため、長距離トラックに乗って、家族の待ち合わせ場所であるシベルタに向かうことになる。ダニエルは、弟の面倒を見ながら、はじめての子供だけの旅への不安とかかえ、しかし責任感をもって行動する。そんな彼らを、なぜか尾行する怪しい人物がいた。

 この作品は榊原晃三の訳で、すでに述べた学習研究社の《少年少女サスペンスシリーズ推理編》の一冊として出た。しかし、物語は推理(謎解き)ものというよりは、いわゆる道中もので、おんぼろ自転車を借りたり、免許取立て男の運転する暴走車に同乗したり、移動中の客車にもぐりこんだり、途中、パリ祭に参加したりと、尾行者の謎よりもそうした旅のさなかのさまざまな出来事が楽しめる。ダニエルとマヌーは、自分たちに似た資産家の兄弟と旅で出会うが、彼らもまた、幸せではない。人間の幸福は金で買えるものと密接に結びついているが、しかし金があるだけでは幸福にはなれない。それは大人が〈現代っ子〉とやらに教えてやることではなく、逆にそれを忘れた大人たちが、出来ることを精一杯行なった子供たちの真摯な姿勢に、教えられることある。少年たちが幸福にたどりつくのは、貧しいからではなく、努力したからである。資産家のお礼はちゃんといただいて、お金で買える幸福が必要な人のもとに届くことになる。

 もう一冊の『オルリー空港22時30分』 La Kangourou Volant(1957)は上野瞭の翻訳で学習研究社の《少年少女・新しい世界の文学》から出ている。舞台は題名どおりオルリー国際空港で、そこには多くの人々が集まって、さまざまな事件が並行しておこっている。アナーキスト、ミュロの爆弾騒ぎ、空港警備に借り出された警官たち、なぜかものをなくしてばかりの陽気なイタリア人、誘拐された科学者、そしてひとりぼっちになった科学者の幼い娘。空港案内所の助手ラファエルを中心にして、夕方からミュロの空港爆破予告時間の22時30分までの数時間を、緊迫感とユーモアをもって描いていき、今回読んだ3作の中ではもっとも面白かった。

 また、『首なしうま』にも出てきたシネ警部が再び登場する。よれよれのグリーンのトレンチコートを来た馬づらの刑事で、ルウビィニイから来たことになっているから、間違いなく同一人物だろう。「警部」になっているのは、翻訳のためだけなのか、それとも『首なしうま』事件で手柄をたてたために昇進したのかは不明だが、この作品でも、ユーモラスな役割で座を盛り上げる。

 幼い少女が父親から聞いた「世界中の事を知ることが出来る砂ばくのやさしい妖精」グロックおじいさんの存在を信じたラファエルと空港案内所のアナウンサー、アドリーヌは、港内放送でグロックおじいさんを呼び出す。この物語の白眉は、それに応じて本当に「グロックおじいさん」が現れるシーンで、この部分はミステリとしてもよく出来ている。ただ、爆弾騒ぎや空港警備は、テロリズムが冗談ではすまない現代の目からするとまだまだ牧歌的で、児童文学の世界でも、こうしたユーモアが通じたのは、1950年代から60年代あたりまでなのかもしれない。

 1968年のグランドマスターはなく、最優秀長篇賞はドナルド・E・ウェストレイクの『我輩はカモである』、最優秀処女長篇賞はマイクル・コリンズの『恐怖の掟』が受賞した。

*1:ネットで検索しているうちに知ったのだが、最近映画化された「黄金の羅針盤」シリーズで活躍する少女ライラのモデルが、このマリオンらしいのだ。作者のフィリップ・プルマンが幼少時に『首なしうま』を読んで、そこに登場した少女に惚れ、それがライラのモデルになったとか。