恐怖の谷(その1)/冒険青年マクマード登場


 山中ホームズの第2作は『恐怖の谷』である。『緋色の研究』を元にした第1作『深夜の謎』と同じく、過去の事件を語る原作の第二部を最初に配置し、ホームズが登場するのは後半になってからだ。


 で、原作の「第二部 スコウラーズ」が、ここでは「第一部 変現する名探偵」と題されて、物語はアメリカの炭鉱町からはじまる。ギルトマン連山に汽車に乗ってやって来たのは、冒険青年マクマード。「二十五か六くらいに見える」青年だ。

 原作では、この男、ジョン・マクマードは、「顔いろの生き生きとした中肉中背の男で、三十を越したばかり」と描写される。特徴は、眼鏡をかけた「大きくて利巧そうな、怒りっぽそうな灰色の眼」(阿部訳では「大きいするどい、そしてどこかユーモアのある灰色の目」)である。山中版では、眼鏡の描写はない。やはり、冒険青年ともなると、眼鏡は似合わないし、三十代ではトウが立っているという判断だろう。しかも、何かというと、「ウフッ」と不敵に笑う。ときどき、にやけると、笑い声は「テヘッ」に変わる。愛嬌もあるのだ。しかし、「テヘヘ」とのばすと、好色漢が美女にいやらしい視線を送った時に発する、よだれ交じりの笑いになるから、注意が必要である。

 マクマードの年齢が少し若くなっているほかに、原作と違うのは、連山の名前だ。原文は the Gilmerton Mountains で、翻訳では「ギルマートン連山」(延原謙訳)または「ギルマトン山脈」(阿部知二訳)と表記されている。それが「ギルトマン連山」になったのは、第1作の『深夜の謎』でワトソンの負傷地「マイワンド」が「ワイマンド」となったのと同じく、日本人に発音しやすいという理由からだろうか。そういえば、作家のチェスタトンの名は、はかつて「チェスタント」と頻繁に誤記されたらしく、最近ではケロロ軍曹が征服しようとする星の名が、マンガ原作の「ポコペン」からアニメで「ペコポン」に変わった。媒体による固有名詞の変更・改竄というのは、さまざまな要因が絡み合って、興味深いテーマといえる。

 固有名詞の表記といえば、マクマードと恋に陥るヒロインの名前は、山中版はエチイである。もちろん、これは改竄ではない。ある時期まで、日本人は「ティー」を「チイ」と表記・発音していた。年輩の方は、今でも歓迎パーチィでチーを飲んでいる。だから、山中版ではモリアティも「モリアチイ」である。東京創元社はミステリの女王の名を長らく「クリスチィ」と表記していたが、最近になって変更したのは、かえすがえすも残念である。

 さて、マクマード青年は町で次第に頭角を現し、下宿屋の娘エチイをめぐって自由民連盟(延原訳では「自由民団」、阿部訳では「大自由人団」)の党員ボードインと争いとなる。そこで、党の支部長マギンチイに仲裁を求めるが、このとき党員同士の仲直りの儀式がある。延原謙訳ではこうなっている。

「何を怒りめされるのだ」
「暗雲低迷す」
「されどいつかは晴れん」
「そのことを誓います」

 これが山中版では「同志の血は、同じ血だ!」と二人が声をそろえて唱えるだけ。労働組合らしくはあるが、秘密めいたところがなく、含蓄に欠ける。では原作のこの天候を使った合言葉は、山中版では使われていないのか。いや、じつは違うシーンで使われているのである。それは、冒頭の列車の中の、マクマードが最初に出会った党員スカンランとのやりとりで、お互いに眉をおさえつつ行なう同志のあいさつは、原作では以下のようなものだ。

「暗い晩はいやなものだ」
「不なれな他国ものにはな」

これが、山中版では、こうなっている。

「いい天気のあとには、雨がくるぜ」
「その雨も、またやむさ」

 互いの恨みを水に流す合言葉が、なぜ同志確認の合言葉になったのかは不明である。

 マクマードはマギンチイに取り入るために、贋金作りの腕を示す。原作では金貨の偽造なのだが、山中版はもっと豪儀である。印刷機を調達してドル札の偽造に乗り出し、「何億ドルでも」と豪語する。こうして支部の一員となったマクマードを祝して、子分どもは「マク兄き」と集まり、なぜかいっせいにタップ・ダンスを踊り出す。うーむ、やはりアメリカの酒場といえばタップ・ダンスなのか。

 そして、いよいよ自由民団ヴァーミッサ341支部、すなわち殺人集団スコウラーズへの入団式である。儀式が行なわれるのは、マギンチイ親分の店〈ユニオン・ハウス〉の大地下室(原作では大会議室)。目隠しをされて、眼にナイフのようなものをあてられ、一歩前に踏み出すという肝試しの試練は原作どおりだが、山中版では、二足、前に出ることになっている。おお、さすがに「マク兄き」だけのことはある。

 マク兄きはこの後、スコウラーズ一員として、襲撃に加わったり、また贋札作りに精を出す。そして、マギンチイ親分じきじきの依頼。組合の言うことを聞かない硬骨の坑夫長の暗殺である。原作では親分が爆弾による一家皆殺しを指示し、そのあまりの残虐さにマクマードが一瞬戸惑うのだが、山中版のマク兄きは、

「これぁ、ひとつ、うでだめしに、爆発と行こうて、ウフッ」

と、自分から爆殺を言い出すほど、ノリノリである

 さて、第1作の『深夜の謎』は原作が短いこともあって、省略されたエピソードはほとんどなかったが、今回は短くする工夫がいくつかなされている。最も目だつのは、スコウラーズの穏健派モールス(モリス)の登場シーンが大幅にカットされていることだろうか。スコウラーズの会議で新聞社襲撃をいさめるのと、「名探偵エドワーズ」が町にやってくるという手紙を見せる役くらいだ。もっとも、この手紙、新潮文庫では10行ほどしかないが、山中版では二ページ半もある。ピンカートン探偵社がニューヨーク中央探偵局となっているのはご愛嬌としても、電信局勤めの苦労を語ったり、「スコウラーズはアメリカの恥じである!」という新聞の論説を引用したり、エドワーズが「変現する名探偵」だと教えてくれたり、中央探偵局が彼に「スコウラーズ全滅」を指令したと知らせてくれたり、さらには手紙が一味の手に渡ると危険だから「読んだら焼いてしまえよ!」と忠告したりしてくれる。原作のモリスがモールスになったもの、電信局に親友がいるためなのか。

 事件はもちろん、マクマードが正体を明かし、悪党どもを一網打尽にして終わる。首領のマギンチイは死刑となるが、一部の幹部は生き残る。とくに、豹のボードイン、虎のコーマック、狼のイラビの三人は、懲役二十年をうけたものの、模範囚として十年で仮出獄した。原作では「十年間、彼らは世間から隔絶されたが、ついに自由を得る日がきた。」とあるだけだが、山中版は細かいところに詳しい。

ここに舞台は、アメリカをはなれて、英国の首府ロンドンにうつり、医学博士ワトソン先生の記録によって、さらに発展するのである。

 われわれも、ようやくホームズの活躍に触れることができる。