児童文学と完訳主義(2)――面白さの種類

 講談社が1997年から1999年にかけて全24巻を刊行した「痛快 世界の冒険文学」は、著名作家によるリライトを前面に押し出したシリーズである。原作者の名前は小さく、再話者の名前が大きく表示された本の造りは、「世界名作全集」や同時期のリライト版児童文学全集と同じである。1970年代以降はめっきり少なくなったスタイルの、久々の復活であった。この叢書が開始された時の書評に次のようなものがあった。

児童文学はいうまでもなく児童と文学という二つの言葉が合体して出来ているものだ。そのため、時により、人により、児童にウェイトがおかれたり、文学にウェイトがおかれたりする。児童文学史において間歇温泉のように吹き出してはくり返される「子どものためか自己表現か」という論争も、このことに由来する。児童主義児童文学VS文学主義児童文学とでもいうところか。海外児童文学の翻訳に際しての「リライトか完訳か」という意見対立も、同根である。(石井直人)*1

 この文章だと、リライトは「児童主義児童文学」であり、完訳は「文学主義児童文学」であるかのように読める。つまり、リライトは「児童のため」であり、「完訳」は児童の理解度を無視した「文学主義」なのだ、と。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。

 宮田昇は『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社)で、1960年代の読書運動の盛り上がりの中で、児童文学のリライト、ダイジェストが槍玉に挙げられたことに触れ、そうしたリライト本は「悪い本」とされ、一方で「全訳主義を唱えていた岩波書店の児童図書、福音館の海外児童図書の翻訳は飛躍的に伸びた」と述べていたあとに、こう続ける。

 私など、いくら子どもの本であれ、「よい本」「悪い本」に区別するなどもってのほかであり、文学の好きな子もいればエンターテイメントを好む子もいる。また、文学以外のものに関心のある子もいる。要は活字に親しみ、活字がつくり出す世界を楽しむことが大切だと考えた。(中略)
 むしろ問題とすべきは、文学性ではなく、漫画と競争できる、魅力ある読み物を送り出すことではなかったか。また、子どもの理解度を配慮しない直訳調の全訳に、顔をしかめたことも数多くあった。子どもの本にとくに要求される翻訳は、眼光紙背に徹した上で、平易な美しい日本語にすることだ。

 また、前回触れたように、小田光雄も『古本探究』の中で、講談社版「世界名作全集」が児童文学界で評価されず、対して「岩波少年文庫」が高い評価を得たのは、「前者が再話、後者が「名作にふさわしい完訳」によっていたからだ」と述べている。

 これらの文章には、「岩波少年文庫」があたかも、「完訳」だけを売り物にした、文学性ばかり前面にだす「子どもの理解度を配慮しない」魅力のない読み物だという印象を与えかねない一面がある。しかし、もちろん、「岩波少年文庫」を少しでも知る者にとっては、それはばかばかしい勘違いだ。「岩波少年文庫」が評価されたのは、完訳ゆえではない。もちろん、古典名作の完訳・定訳(大人向きの作品を児童文学として収録するときは、ダイジェストを行なっている)をきちんと行なったことも、理由のひとつではあろうが、評価のいちばんは、それまでの「児童文学全集」的な古色蒼然とした古典名作の羅列に飽き足らずに、これまで紹介が遅れていた新しい作品を数多く含め、子どもが本当に楽しめる「魅力ある読み物」を「平易な美しい日本語」で提供しようとしたことにある。この叢書の創刊に携わった石井桃子は、当時をこう回顧している。

 岩波書店の首脳部の人たちと編集会議をしたという記憶はない。とにかく、私にはそのみんなと離れた机で、『宝島』『ふたりのロッテ』『あしながおじさん』……と、私が読んで楽しめる本、私にとって「喜びの訪れ」が感じられる本のリスト作りに熱中していったということだけが確かなのである。(『図書』1990年7月――引用は斎藤惇夫の「岩波少年文庫とわたし」から孫引き/『なつかしい本の記憶―岩波少年文庫の50年』所収)

 この時、石井桃子の胸にあったのは、宮田昇がリライト糾弾にいらだって述べた言葉と、同じ思いではなかったのか。「完訳」の必要性は、子どものためにこそあったのである。そして、それは、ある種の人びとに、確実に伝わった。『なつかしい本の記憶―岩波少年文庫の50年』では、中川李枝子・山脇百合子姉妹や岸田衿子・今日子姉妹が、ほんとうに楽しそうに、「岩波少年文庫」に出会った日々を語っている。そこで、中川李枝子は、リライトやダイジェストではない『宝島』に接した時の思い出をこう語る。

私、「少年文庫」で『宝島』を読んだとき、なんておもしろいんだろうとびっくりした。「小学生文庫」で読んでいたのと全然ちがうので、すごく驚いた。恐ろしさがちがう、ド迫力がある。それから出てくる人間の一人ひとりが生き生きしていて、映画を見ているような気がした。

 彼女にとっては、リライトやダイジェストは「悪い本」というよりも、つまらない本なのだ。「完訳」だからではなく、おもしろいから「よい本」なのだ。そして、こうも語る。

李枝子 ほんとにがっかりしたのは、講談社の全集(講談社版「世界名作全集」のこと/引用者注)に入っていた『小公女』。加藤まさをの絵が邪魔で、ないほうがいいと思った。
百合子 戦後、「少女クラブ」の「アルプスの少女」は蕗谷虹児なのよ。なよなよした少女趣味の絵で、ハイジには合わなかった。

 こういう子どもも、間違いなくいるのである。彼女たちは「岩波少年文庫」の理想的な読者だろう。そして、対談を読むとわかるが、この姉妹の母親は浜田廣介や小川未明が嫌いで、子どもに読ませまいと隠してしまうような親なのだ。また、両親を「お父さま」「お母さま」、百合子は対談相手の李枝子を「お姉さま」と呼ぶような家族である(嫌味でなく、こうした呼び合いがサマになっている)。岸田姉妹については、いうまでもあるまい。つまり、経済的にはめぐまれてなくても、みな、教養あるインテリの家系なのだ。やはり、ある種の「面白さ」を感じ取るためには、それが「文学」であれ「大衆読物」であれ、それなりの「基礎教養」が必要なのだろう。

 『なつかしい本の記憶』には、もう一組、池内紀・了兄弟の対談が載っていて、この二人は、「岩波少年文庫」だけでなく、リライト、ダイジェストの児童文学についても、楽しんで読んでいる。父親は学校の先生で、やはりある程度のインテリだから、家庭環境というよりも、本人たちの資質による部分が多いのかもしれない。この対談で池内紀は、国語の教師が菊池寛の「入れ札」を朗読してくれた思い出を語ったあとで、こんなことを言っている。

その「入れ札」の話を聞いているとき、すぐ前の席の靴屋の息子は、イビキを立てて寝ていました。つまり世の中って、こんな話を聞きながら、感動するのもいれば、グーグー寝るのもいる。たぶん感動するのは少なくて、寝るほうが世の中においては強いだろうなと、そのときわかりましたよ。

 この時、菊池寛の作品に退屈した靴屋の息子くんは、マンガや講談社版「世界名作全集」の冒険物語には感動しただろうか。それとも、やっぱりイビキを立てて寝てしまっただろうか。

 「岩波少年文庫」側の人々は、これまでの海外児童文学の紹介は「杜撰な翻訳が看過され、ほしいままの改刪が横行している部門」だったとする。*2たしかに戦前の翻訳には、売れやすくするために安易に結末を変更したものや、わかりやすくするという名目で登場人物の性格を単純化したり、教育上よくないということで重要なエピソードを省いたものなどが横行していたのかもしれない。それでも、「粗悪な読書の害が、粗悪な間食の害に劣らないこと知る、世の心ある両親と真摯な教育者」*3という言い方には、彼らのいう「粗悪な読書」ばかりしてきたぼくは、おおいに抵抗を感じる。今では、おそらくそうした人の方が多いのではないか。しかし、「粗悪な間食」では満足できない子どもだって、やっぱりいるのである。

 「本当にいいもの」は誰にでも理解される、というのは、間違いである。「文学」だけでなく、「大衆読物」(エンターテイメント)だって、分かる人にしか分からない。ま、あたりまえの話だが。

*1:図書新聞」1997年12月20日 http://www.hico.jp/jihyou/tosyosinnbunn/97/9712.htm から引用

*2:岩波少年文庫発刊に際して」/同叢書の巻末に掲載されている

*3:同前