『本格ミステリーを語ろう!/海外篇』

本格ミステリーを語ろう![海外篇]』芦辺拓有栖川有栖小森健太朗二階堂黎人原書房/1999)を今さらながらに図書館で借りてきて読んだ。

 今さらながらに読んだ理由は、二階堂黎人関連の興味である。彼が「ポーから現代に至る本格ミステリーの歴史」をどうとらえているのか、ちょっと確認してみたくなったのである。


 二階堂黎人は「まえがき」でこう述べる。

若い読者たちが、適切なガイドとして使えるような評論集や入門書などはあるでしょうか。(中略)百五十年以上の歴史を誇るミステリーの歴史と作家全体を敷衍したようなものはありません。

 たしかに、かつては中島河太郎をはじめとして、このような適切な入門書がきちんとあったが、最近はあまり見かけない。翻訳ではヘイクラフトの『娯楽としての殺人』などがあるが、これはあまりにも古い。ジュリアン・シモンズの『ブラッディ・マーダー』は、まだこの本が出版された1999年には翻訳されていなかった。だから、1999年の視点で、ミステリの全体像を敷衍するような入門書を出すというのは、たいへん有意義に思える。

 ここで語られるのは、題名にもあるように、「本格ミステリー」を中心とした海外ミステリの流れなので、ミステリ全体の流れではないが、それでもまあ、適切に語られるのなら、意義は高い。とくに、戦後の本格ミステリーの流れは、なかなかつかみにくいので、それらをかれらがどう「流れ」としてとらえるのかには興味があった。

 しかし、読んでみてがっかりであった。この本を読んでわかるのは「本格ミステリーの歴史」ではなく、彼ら四人の好きな作品がなにか、ということだけである。個々の作家の取り上げられる分量が、まったくバランスが悪い。百五十年以上の歴史を敷衍といいながら、けっきょく黄金時代の作家と作品についてが、全体の半分以上のページ数をとっている。黄金期以後は、全体の二割程度しかない。「現代の本格ミステリー」は、そのさらに半分。しかも、「現代」とは1950年以降なのである。これにはまいった。

 最近、ネットの中でミステリの歴史は、まずポーからはじまって英米黄金時代までを述べ、そこから急に戦後の日本にとび、横溝正史の時代を経て、社会派の「暗黒時代」を嘆き、綾辻行人の『十角館』に至る、という語られ方が多い。戦後の英米ミステリの流れはどうなったのか、まったく謎である。

 それと同じことがこの座談会でもあらわれている。つまり彼らの好きなのは黄金時代の(アメリカの)本格ミステリなのである。(カーもアメリカ的な作家である)それと同じテイストを求めるようとすると、戦後の英米の流れは、流れとしてとらえられない。ホックやヤッフェやスラディックやデアンドリアなどの(いずれもアメリカ作家)が点のように語られるきりである。例外はイギリスのラヴゼイか。つまり、そういう意味では、英米では「本格ミステリー」はすでにジャンルとしては滅んでいる、とはからずも彼ら自身が語っていることになる。

 更に言えば、この本で語られる内容を読むと「本格ミステリー」がなにか、ますます分からなくなってしまうことだ。少なくとも1930年代までのミステリで、触れられていない作家・作品はハードボイルド系のものだけである。巻末のリストには、ウジェーヌ・シューも、ガボリオも、ドストエフスキーも、ファーガス・ヒュームも、スティーヴンスンも、ラインハートも、ベロック・ローンズも、J・S・フレッチャーも、シムノンも、フランシス・ノイズ・ハートも、デュ・モーリアも出てくる。なのに、ハメットとチャンドラーだけは出てこない。戦後では、ウールチッチも、パトリシア・ハイスミスも、ガーヴも、アイラ・レヴィンも、バリンジャーも出てくる。でも、マクベインは出てこない。つまり、「本格ミステリー」とは「ハードボイルドと警察小説とスパイ小説をのぞいたあとすべて」と考えるしかないことになる。なんという混乱!

 そもそも「本格ミステリー」だけの歴史を語ろうとすることが、無理なのである。

 というのも、ハードボイルドも警察小説もスパイ小説も、あきらかに本格からはじまったミステリーの歴史を背負って発展しているし、黄金時代のミステリの行詰まりへの打開策として出てきたのは、「心理サスペンス」や「イギリス新本格」だけではなく、ハードボイルドも警察小説も同じはずだと思うからだ。これらの歴史的な流れを抑えないと、新しい本格ミステリがハードボイルドや警察小説とは違うことをやろうと(あるいは同じことを違う方法でやろうと)したことが見えてこないと思うのだが。

 僕たちの世代では、ミステリの歴史は常に「ミステリ全体の歴史」ということで語られていた。その中のサブ・ジャンルが好きであろうと嫌いであろうと、ハードボイルド・警察小説の発生やスパイ小説の流れもとりあえず抑えながら、歴史は語られていた。このような、自分の好きなものだけを語る、というのは、いつごろから「当り前」になったのだろう。

 座談会を読んで、もっとも適切な意見(と僕には思えるもの)を述べているのは、芦辺拓である。この人は、本格について被害妄想的なことを言わなければ、じつは個々の作家・作品の評価の仕方は、けっこう的を射ているようだ。

 しかし、やっぱりこういうことを言ってしまうのも、芦辺拓芦辺拓たる所以である。

芦辺:あのアンソロジー早川書房『世界ミステリ全集/37の短篇』)は、本格嫌いの視点から選ばれているのに、印象に残っているのは本格ものだけなんだよね。

 「魔の森の家」カーター・ディクスン 、「九マイルは遠すぎる」ハリイ・ケメルマン、「五十一番目の密室」 ロバート・アーサー、「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」ウイリアム・ブルテン 、「最後で最高の密室」スティーヴン・バー 、「長方形の部屋」エドワード・D・ホック 、「ジェミニイ・クリケット事件」クリスチアナ・ブランドなどを収めているアンソロジーのどこが、「本格嫌いの視点から選ばれている」のだろう。なぜ、バランスのよいアンソロジーと言えないのだろう。

 こういうことを言うから、この人は駄目なのである。